2017年4月27日木曜日

無職日記 6



言葉の意味が後からわかる、という事が時々ある。

今まで何となく気になっていたけど足を踏み入れていない所へ行く事を最近時々していて、昨日は国立市にある谷保天満宮という所へ行った。南武線谷保駅で降りると、一年程前に辞めた水道検針員時代に担当していたビルや家が建ち並んでいて、電車を乗り継いで遠くに来ているはずなのに、私とその場所との距離はまるでなかった。谷保天満宮自体は思った程奥行きはなく、帰りにおみくじを引いたら心安らかに人に尽くせ、と出た。

そこから自宅のある東大和市へと、北へ北へと歩いて北上して行った。私の自宅は国立駅から真北に位置していて、今までやや迂回するルートしか知らずその道しか歩いた事がなく、でも昨日は歩いた事のない道をとにかく北へ北へと直線で歩いてみるようにしていたら、ほぼ迂回する事なく自宅へと辿り着いた。

整体を知り始めた頃、あなたは歩いた方がいい、歩くと頭がまわるようになる、目的もなく一日四時間くらい歩いたらいいと言われて、歩く仕事である水道検針を始めたのだったが、自主的に目的もなく四時間歩く、という事は結局ほぼしなかった。昨日は歩きながら、その事を思い出していた。

私はいつも目的を探してしまう。仕事も、歩く時も、なにもかもに目的を探して、全てが目的に向かって行けるよう、そうなっているか大丈夫か全体を見ようとして、こんがらがってよくわからなくなって立ち止まってしまう。目的なく歩くのは難しい。だって目的もなく歩くということは、ただ動くという事だ。そういう事だったのだ。

私は仕事がしたい。この一つの欲求から始めればいい。全体はもうみない。動くだけ。



2017年4月26日水曜日

無職日記 5



昨日は風が冷たくて、一日中体が冷たかった。遅く起きてメールを返し、お昼過ぎに銀行に行って、帰って本を読もうとしたら眠くて眠くて、けれども眠る事もなくいつも歩く道をぐるぐるぐるぐると歩いた。ぐるぐると同じ所に留まり続けるような毎日だけれど、この日記を書くようになって、一つのまとまった文章を完成させる度にちょっとだけもやが晴れるような感覚があって、実際私の意識は少しずつ変わり始めている。

私は働きたくない訳ではない。私はむしろばりばりと仕事がしたい。同時に、私は個人的な事がしたい。そういう訳でいま、私はここぞとばかりに閉じこもって文章を書いているのだが、仕事をするという外に向かう行為と、個人的な事をするという内に向かう行為、この二つの事が自分の中でバランスがとれず、わからなくなるといつも立ち止まってしまうのだけれど、もっと言えば二つどころかもういくつかあるような感じがしていて、どんどんどんどん私の頭はこんがらがって行き、いま、私は立ち止まっている。

それでも私の意識はものすごくゆっくりとしたスピードで変わり始めている。ぐるぐるぐるぐると、毎日毎日同じ所を歩きながら、ものすごくゆっくりと変わって来ているもの。もしかしたらこれは、元々ものすごく時間のかかるものなのかもしれない。思っているよりずっと、時間のかかるものなのかもしれない。



2017年4月23日日曜日

無職日記 4



昨日は上映会で映像を見た。秩父の村の子ども達の誕生から成長の過程でおこなわれる通過儀礼を記録した、40年前くらいのドキュメンタリー映像。誕生して、成長する過程でおこなわれる数々の儀式や、祭りへの参加など、子どもはもちろんその成長に付き添う大人も、決まった時期になるとあれやこれやと決まった行為をおこなっていく。その映像をぼーっと眺めていた私は、やる事多いなーと思いながら見ていた。
人間の社会にはやる事が多い。家族や村の中で節目節目でとりおこなわれる儀礼は、それをおこなっている人々の中に、ある運動と時間を生み出しているように思えた。なにか分からないがする事やそれをする時期が決まっていて、みな何かの役割を担っている。それは会社に勤めたり、ある社会的なモデルに従って時間を過ごすという事にも似ていて、会社からも村からも家族からも外れて、いま、ぽっかりとした時間の中に居る私は、ただの生き物みたいな感じかな、などと思った。

木の事を時々考える。
私が毎日毎日どこかに通ったり、なにかあたらしい事を経験したり、あたらしい人と出会って面白いと感じたり、苦しいと感じて家から出たくなくなっている時も、ぴかぴかに晴れている今日のような日も、長く雨が降り続く日も、オリンピックで浅田真央ちゃんがメダルをとったり、物騒な方向に政治が進んで、自由を奪われていく感覚を人が感じている時も、私がここに住む前から、いまも、ずっと一つの所に立ち続けている木の事。


2017年4月21日金曜日

無職日記 3



職場に通うという事がなくなると、ぽっかりと時間が出来て自分の感情に向き合わざるを得ない。不安な気持ちに襲われると、意識的に散歩に出る。今住んでいる家にはもう八年くらい住んでいて、移動したいと思いながらも他に行きたい場所も浮かばず留まり続けているが、この辺りには所々に変な空き地があって、そういう所は気に入っている。

絵を描こうとするんだけど手が止まるんです、という話をした事がある。絵を描こうとする自分がいて、そうすると私の中のもうひとりの人が、本当にそれでいいのか?と割り込んで来て、手を止めるんだ、という話をした時に、あなたの中にはもうひとりどころではない、何人か居ますね、と言われた事がある。それはその人達が何を言っているのか良く聞いて、理解しないと先へは進めないと。私が無職のときに感じる不安はこの辺りから来ている気が、最近している。

焦って不安になって、仕事を探している時に、何を焦ってるんだろうとふっと思ったのは、前回の無職のときだった。どうしてお金がなくなるからという理由で、したくもない仕事に飛びつく必要があるのだろうと、ふっと思った。それは私がしたい事なのか、母がしたい事なのか、社会がしたい事なのか。何が私を急かしているのか。考える軸の位置と時間の進み方が、わからない何かから私の方へと、少し移って来たように思った。

私の無職は私のものだ。誰にも渡したくない。



2017年4月20日木曜日

無職日記 2



昨日は山に登った。
平日だけど結構にぎわっていて、おばあさんは杖をついてひょいひょい山道を登って行くし、赤やピンクやエメラルドグリーンなど、カラフルな色の服を着ている人を多く見かけた。常に風が吹き抜けていて、木も音も光も動き続けていた。

仕事で外出する事無く家に居ると、とても運動不足になる。今までは外で働く事で運動しようと考えている所があった。職場で動いて運動して、人と話して、運動不足を解消する。そして家でじっと自分の仕事をする。職場と家の往復というサイクル。でもどんな職場に行ってもいつも空しさがつきまとい長続きしなかった。

そこから運動を考えるようになった。動く事が必要なら、行きたい場所に行ったらどうだろう。まだ行った事無い場所に行ってみるのはどうだろう。会いたい人に会いに行くのはどうだろう。話したい人と話しに行くのはどうだろう。私の欲求から生まれる動きが運動になって行く。

今まで動いている気になっていたのかもしれない。ただ動いて、動いてる気になって、お金を使って、動かしてる気になっていたのかもしれない。

能動的に動きをつくる、という事を考え始めている。

2017年4月18日火曜日

無職日記 1



三月末に、三ヶ月ほど働いた中国人予備校のアルバイトを首になった。
首になる、という事は初めてだったが、窓のない密室で六時間パソコンの前に座っているというデスクワークが辛過ぎて、長くは勤まらないだろうと思っていた事に加え、最近の私は経験そのものが何でも面白く、失敗しても、悲しくなっても、物事が動いている、その変化そのものの一つ一つが面白く感じられ、首になって喜んだ上、面白がってしまった。もう会社には戻れないだろうなあ、という事には薄々勘付いている。

学校を出て最初に就職した編集プロダクションを二年半程で辞め、その後はどこに行っても腰掛け気分が拭えず色んな仕事を転々として来たが、無職になるたびお金がなくなるという恐怖と、みんなが働いている時に働いていない自分の浮いた感じにどうしようもない居たたまれなさと焦りを感じて必死に仕事を探す、という事を繰り返して来たが、再び無職になったいま、私は落ち着いている。この無職という状態の自分を観察していると色々と面白い。焦る気持ちに振り回されるのではなく、何に焦りどう振り回されているのかじっとよく見るようにする。どうやら無職にも成長があるらしい。これからこの無職が続く間、感じた事をいくつか書きとめて行ってみようと思う。もうちょっと早く始めておけばよかった。



鶴崎正良 油絵展

父が自宅で個展をするそうです。
10人は泊まれると言ってましたが、私が帰っても部屋は無いと言っていたので、泊まれないと思います。
行きたい方居らしたらご連絡ください。

「鶴崎正良 油絵展」
新作10点を含めた50点ほどの展示
会期:4月30日〜5月7日
時間:11時〜16時(5月5日のみ13時〜)
会場:鶴崎正良 自宅
(福岡県柳川市※西鉄柳川駅から徒歩15分)